がんと生きる 歌舞伎俳優・市川團十郎さん
■舞台復帰をただただ願い… 「辛かった移植後の副作用」
歌舞伎俳優の市川團十郎さん(63)が血液の
がん、
白血病と宣告されたのは平成16年5月。7歳で初舞台を踏んで以来、第一線で走り続けた
團十郎さんは再発や移植手術を乗り越え、今は毎日舞台に上っている。家の芸である荒事さながらの超人的強さは、舞台復帰という強い目標に支えられたものだった。(文 飯塚友子)
16年5月、ちょうど倅(せがれ)(現市川海老蔵)の襲名公演が始まった直後、体調がおかしくなり、病院で急性前骨髄球性白血病という宣告を受けました。
「よりによって、何でこの時期に」ってショックでした。公演に備えて4月、人間ドックにも入ったばかりなのに。「舞台は?」ってお医者さまに聞いたら、「ダメです。即入院です」。そのときは残念というか悔しいというか。
すぐに抗がん剤の投与と
トレチノインというカプセルの服用が始まりました。髪は抜けましたが大きな副作用もなく、幸い1カ月くらいしたら体調が安定し、10月の(海老蔵襲名)パリ・オペラ座公演で復帰しました。
本当に大変だったのは、翌17年8月の再発後。体調は悪くなかったのですが検診で再発が分かり、前回と同じ治療は効きませんから自家末梢(まっしょう)血幹細胞移植をすることになりました。
そのときは
トリセノックスっていう亜ヒ酸、要するにヒ素を使うわけですね。ちょうど私が発病したとき、許可になったばかりの病院でも初めて使う薬だと聞き、驚きました。こういう治療は5年おきに結果をみて審査するわけですから、治療を受ける身でありながら、ある面で実験台でもある。それを60日間、点滴し続けました。待望の
寛解(かんかい)(
がん細胞が検出されない状態)という言葉を頂きました。
この間は副作用もほとんどなく、のんびりしていました。暇なので、ペンで何か書こうと思ったら腕に管が入っているので負担が大きい。そこでパソコンで入院日記を書き、インターネットに載せました。
寛解後はしばらくのんびりして、移植に進みました。自分の造血幹細胞を取っておいて冷凍保存し、大量の抗がん剤を入れて、幹細胞を戻す治療です。この(移植の)前処理が1月10日ごろから始まりました。
本当にきつかったです。
かなり強い抗がん剤を目いっぱい、生きられるギリギリまで入れちゃう。
頭に抗がん剤を入れたときには、ちょっと気を失いました。これで台詞(せりふ)が覚えられるのか、おっかなかったですね。
それで1月23日ごろから、保存しておいた自分の幹細胞を戻し、(移植細胞が造血の働きをする)生着を待つわけです。その間、もう今まで経験したことのない辛(つら)い症状というか。
勝海舟の咸臨丸じゃないけれど、嵐の中で揺れる船底にいるような状態が昼も夜もなく、ずーっと1週間ぐらい続きます。
ムカつきや口内炎、皮膚がガサガサしたり。あと、腹痛です。今までの人生、あちこち痛いとかあったけれども、それから比べれば王様です。普通は腹痛も波があるけれども、「痛ー」っていうのが、ズーっと続くんです。一番きついときは、枕元の明かりすら刺激が強すぎてダメ。カーテンを引いて、真っ暗な中、ただただジーっとしていました。
そういうときは、もう何も考えられないです。無間地獄のようで、あのとき目標持てたら大したものです。さすがに物は食べられませんでしたが、ただ這(は)ってでも動いて、手洗いやうがいをしていました。
リスクの高い治療でしたが、2週間後に生着が確認できました。2月下旬に退院し、5月の再復帰の舞台は、「外郎売(ういろううり)」。早口の台詞がしゃべれるか心配でしたが、何とか覚えてられた。でもやっぱり覚える力は前より弱まって、時間はかかりました。
ところが貧血が続き、19年夏過ぎ、赤血球が急激に減っちゃったんです。白血病の再発とは違うのですが、今度は妹(市川紅梅)から同種造血幹細胞移植を受けることになりました。
【プロフィル】市川團十郎
いちかわ・だんじゅうろう 歌舞伎俳優。昭和21年8月6日、東京生まれ。十一代目市川団十郎の長男で、28年に初舞台。33年に六代目新之助、44年に十代目海老蔵、60年に十二代目團十郎を襲名。屋号は成田屋。江戸歌舞伎を代表する存在で、平成19年にパリ・オペラ座公演が成功。11月26日まで、東京・隼町の国立劇場の「外郎売」「傾城反魂香」に出演中((電)0570・07・9900)。
2009年11月19日 産経新聞