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癌(がん)が治った、癌(がん)が良くなった、癌(がん)が回復した体験談情報

がん克服「鷺娘」再び

◆舞踊家・長嶺ヤス子さん 30・31日披露 


直腸がんから復帰した舞踊家の長嶺ヤス子さんが30、31の両日、新宿区新宿3丁目のスペイン料理や舞踊が楽しめる「エル・フラメンコ」で日本舞踊の名作「鷺娘」を踊る。


長嶺さんは3月に直腸がんであることがわかって手術し、4月21日に退院したばかりだ。入院中の4月13〜19日に銀座の松屋で開かれた絵画展には病院から通い、病室で仕上げた作品を持ち込んだ。


「医者は元通りの体になると言ってくれたけれど、入院で足の筋肉が落ちてしまった。今、作り直しているところ」。退院後、1週間ほど福島県猪苗代町の自宅に帰っていたが、愛犬との毎日の山登りがリハビリになったという。


「社会が沈んだ雰囲気の今だからこそ、私は踊らなければならない。立ち上がる私の姿を見て、勇気を持ってもらえたら」


「鷺娘」は、30年ほど前に踊ったことがある。今回は振り付けも新たに、長唄や津軽三味線を伴奏に踊る。


元々はフラメンコを踊る予定だったが、東日本大震災でスペイン人舞踊手が来なくなったため、予定を変更した。「エル・フラメンコ」も売り物であるスペイン人舞踊手によるショーは休止中で、6月中の再開をめざして現在は主にレストランとして営業している。


長嶺さんは「この店は日本のフラメンコの中心地。他国の文化が根付き40年以上続くのは珍しく、単なる店ではなく文化。日本のフラメンコの灯を絶やしてはいけない」と話す。


開演は午後7時(食事は午後6時)から。料金は2万円、1万5千円(食事込み)。問い合わせは長嶺ヤス子事務所(03・3384・7531)へ。


2011年05月22日

朝日新聞


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突然のがん宣告 がんに打ち勝つ決意新たに

直腸がん(1) 高垣諭さん(40)

 「これ、本当に自分の腸の中?」

見本市でバイヤーと商談する高垣さん(東京都江東区の東京ビッグサイト)
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見本市でバイヤーと商談する高垣さん(東京都江東区の東京ビッグサイト)

 2006年春のことでした。市民医療センターでの検査後に見せてもらった画像に写っていたのは、血がにじんだこぶのようなもの。そして、このこぶこそが、その後の私の人生を良くも悪くも変えることになるとは、その時は思いもしませんでした。

  34歳だった04年、私は加工花を扱う会社で、新事業を軌道に乗せるべく、多忙な毎日を送っていました。小さな会社で、営業から倉庫整理までいくつもの業務を担当し、またそれぞれの仕事に責任もありました。当時は転職直後で、長男も生まれたばかり。仕事へのモチベーションは高かったです。昼食は夕方に、夕食は帰宅後、日が変わってからというように食生活は乱れたものでしたが、特に体調が悪くなることもなく、それなりに充実していました。

 そのころから血便が出るようになりました。子供時代から健康優良児で表彰されるほど身体には自信があり、血便も「疲労による痔(じ)だろう」くらいにしか考えていませんでした。便の側面にすうっと一筋はいる、その血のラインこそ病気のサインだったのですが、当時は面倒くさがって病院にも行きませんでした。

  05年7月に、今も勤める同業社に転職。年末の健康診断で、潜血便(便に血が混じる)の要検査の指示がありました。近所の市民医療センターで内視鏡検査を受けると、ポリープが10個も見つかり、「うち1つは大きな病院でないと取れないので紹介状を書く」とのこと。9個は当日に内視鏡の「ワイヤーカッター」で切除しました。いずれも良性の腫瘍(しゅよう)だったのですが、9個もあり、1時間にわたり内視鏡の角度をあれこれ変えるため、おなかが突っ張ってあまりにつらく、早くその場から離れたくて、残る1個の腫瘍のことも詳しく聞けませんでした。とにかく、近くの大学病院を紹介していただき、さっそく翌週の予約を入れました。

 帰宅後、もしやと思いネットで調べ、その異物ががんの症例とほぼ同じだと知りました。がんイコール不治の病という認識しかない当時の私には、それは死刑宣告。がくぜんとしましたが、それ以上に妻や、まだ幼い子供たちの将来を考えると、身を切られるほどに辛かったです。

 それでも、生活していかなければなりません。現実逃避ではないのですが、仕事にうちこむことでがんのことを忘れようとしていました。

 そして、初めて入った外科診察室でがんの告知を受けました。「これなんだかわかるよね? がんだから」とあっさり言われてちょっと拍子抜けでした。担当医も治ると信じているからこその伝え方だったようです。非常に心強く、そして必ずがんに打ち勝つぞと決意を新たにすることができました。

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がん緩和ケアの正しい知識の普及啓発を

 日本緩和医療学会(江口研二理事長)は10月10日、がんの緩和ケアの正しい知識を普及・啓発するためのシンポジウム「がんの痛みやつらさを一人で抱えていませんか」を開いた。厚生労働省が2007年に同学会に委託した緩和ケア普及啓発事業(オレンジバルーンプロジェクト)の一環で、この日は、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏や、患者家族、医師、看護師、心理療法士などがそれぞれの立場から広い視野で、緩和ケアについての講演を行った。会場には、医師や看護師、がん患者など約900人が集まった。

 会の冒頭にあいさつに立った江口理事長は、終末期だけでなく、診断時から始まる患者や家族の心理的負担などを含め、日常生活の障害にならないよう医療者などが協力して症状の緩和に努力することが緩和ケアだと説明。「早期からの緩和ケアが一体どういうものかということを、(講演を通じて)十分に身に付けてもらえればと思う」と参加者に訴えた。

 続いて鳥越氏が、自らの直腸がんを発見するまでの経緯やその後の治療について講演。緩和ケアについては、「末期のがん、余命を宣告された人たちが静かに最期を迎えるための場所、もしくはそういう治療のやり方を緩和ケアと呼ぶ誤解がある」と指摘。「緩和ケア病棟で痛みを取り、在宅で治療するのが本当の意味での緩和ケアだ」と強調した。

 さらに、患者家族、医師、看護師、心理療法士が、それぞれの立場から講演。まずNPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」の篠田伸夫副理事長が、3年前に肺がんが進行し亡くなった夫人との治療生活を語った。篠田氏は、夫人が緩和ケア病棟で過ごしたことについて、「あらためて本当によかったと思う」と述べ、その理由として「妻の人間としての尊厳が保たれ、優しさに包まれた最期を迎えられたからだ」と説明した。
 また、自身の看護体験から、緩和ケア病棟は「患者のためだけにあるのではない。看護する家族のためにもあるのだと悟った」と語った。

 看護師の立場からは、湘南中央病院緩和ケア病棟の湯山邦子課長が登壇。緩和ケア外来ではまず、「がんを積極的に治す治療から、症状の緩和や日常生活のサポートによって生活の質を維持する治療へ変更する、ということを説明している」と紹介した。
 また現状では、緩和ケア導入・移行に関して患者は、「死をより身近に感じ、恐れと先の見えない不安をおぼえる。そのことが、導入・移行へのハードルを上げている」との見方を示した。その上で、ハードルを少しでも下げるため、早急に入院を必要とする待機患者がおらずベッドに空きがある場合など、一定の条件を満たすときに実施している「体験入院」について紹介した。

 姫路聖マリア病院ホスピス・緩和ケア科の田村亮部長は、医師の立場から講演した。まず、2007年に閣議決定した「がん対策推進基本計画」にのっとって進められている、がん診療に携わる医師全員に対する緩和ケア研修について説明。初期段階のがんなら、「研修を受講した医師であれば、身体的・精神的な苦痛の緩和は可能」と述べた。
 一方、病状が進行し抗がん剤の効きが悪くなったり、再発したりすると、さまざまな問題を抱えてくると指摘。身体的苦痛と比較し、社会的・精神的苦痛、スピリチュアルぺインの比重が大きくなり、症状緩和が難しくなるとし、緩和ケアチームやホスピス・緩和ケア病棟、在宅のホスピス専門チームなどによるより高度な緩和ケアの提供が必要になるとの考えを示した。
 また田村氏は、安心して在宅に移れるように実施する「退院前カンファレンス」や、自宅で看護する家族の負担を軽くするため1−2週間入院してもらう「レスパイトケア」など、緩和ケア病棟での多様なケアを説明した。

 静岡県立静岡がんセンター緩和医療科心理療法士の栗原幸江氏は、心がつらいときは痛みを強く感じることなどを挙げ、心と体を共に楽にすることの大切さなどを訴えた。

 最後に講演した金城学院学院長・大学長で淀川キリスト教病院名誉ホスピス長の柏木哲夫氏は、「治療してもうまくいかない病気の場合、日本の病院は本当に大切な症状の緩和などをあまりしないで、とにかく延命するという歩みを、少なくともここ20年ぐらい前まではやってきた」と指摘。これに待ったをかけたのが「『ホスピスケア』『緩和ケア』という考え方だと思う」と述べた。
 その上で、進行がんや末期がんの患者に対し「治癒(CURE)に導くことは出来ないが、症状を緩和してしっかりと精神的に支え、その人らしい人生を全うされるのを援助するケア(CARE)は最後まで提供できる」と強調した。

2009年10月13日 キャリアブレイン

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がん克服百名山制覇へ 稲美町・元教諭久留宮さん
27日最後の筑波山登山

百名山最後の筑波山に挑む久留宮さん(稲美町の自宅で)

 稲美町幸竹の元特別支援学校教諭久留宮康之さん(63)が、がんを患い、いったんはあきらめた「日本百名山」の制覇に挑んでいる。27日、最後に残った茨城・筑波山の頂(いただき)を目指す久留宮さんは「同じ境遇の人たちの励みになれればうれしい」と張り切る。

 日本百名山は富士山や白馬岳など、作家の深田久弥氏が選んだ全国の山々。久留宮さんは職場の同僚らと山登りを楽しむ中で存在を知り、全山登頂を目標に27山まで登った。しかし、1991年6月に直腸がんの宣告を受けたことから、無念の中断を強いられた。

 がんの手術は成功したが、人工こう門を装着したため、その後は生活に不便さを感じるように。「登山で、がんが再発したら」。不安も募り、山に、足が、向かなくなった。

 転機が訪れたのは、その5年後。仲間の誘いで県内の山に出かけ、教え子に記念の写真を見せると「また、新しい山に登ってよ」と励まされた。主治医も「同じ病気の患者を勇気づけるためにも」と背中を押した。2001年5月、鹿児島・屋久島の宮之浦岳から再開。山から見た日の出の美しさに感動、意欲を取り戻し、昨年10月には99山目の長野・新潟両県境の苗場山の頂へ。いよいよ、筑波山を残すのみとなった。

 百名山をもう一巡し、記録をまとめる計画も立てている久留宮さんは「多くの人の支えで、ここまで来ることができました」と感謝し、「当日はこれまでの道のりを振り返り、仲間と喜び合う場にしたい」と意気込んでいる。

 筑波山は標高877メートルで、初心者でも登りやすいのが特徴。一緒に登りたい人は、久留宮さん(079・492・0582)へ。
(2009年6月24日 読売新聞)

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