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癌(がん)が治った、癌(がん)が良くなった、癌(がん)が回復した体験談情報
俳優・夏木陽介さん(74) 脳梗塞と腎臓がん、趣味と友が助けに

 青春ドラマ「青春とはなんだ」の熱血教師役などで知られ、レーサーとしても活躍する俳優の夏木陽介さん。昨年、脳梗塞(こうそく)を患い、今年は腎臓がんで摘出手術を行った。経過は順調で、趣味の車や馬の話に花が咲く。病との接し方も前向きで、「好き勝手」に生きる若さを感じさせた。(文・織田淳嗣)

   ◇

 昨年の7月(27日)、サウナ仲間とマージャンの待ち合わせをしていました。午後4時、「行こうかな」とベッドから起き上がろうとしたら、体の右半分が上がらない。4、5回繰り返したら、そのときはふっと治りました。

 車を運転してサウナに行き、みんなが来てからもう1度サウナに。それからマージャンを始めて1時間半くらいたったら、手が動かなくなりました。「あれ、何だろう?」と思いました。「疲れてるんだろう」と、みんなでもう一度サウナに行こうとしたら、1人が「ちょっと待って」と救急車を呼んでくれた。検査で左側に脳梗塞が見つかりました。

 マージャンを何十年もやったおかげで、マージャンの神様に助けられた。車を運転しているときだったら大惨事になったかもしれない。マージャンの約束をしないで、家で一晩過ごしていたら「もしかしたら」ということもある。

 原因はまったく僕自身の問題で、水分不足です。1985(昭和60)年からパリのダカール・ラリーに参加して、僻地(へきち)に行っていたから水の怖さをすごく知っている。コーラ飲料を頼んだら現地の水で作った氷が入っていて、ひどい下痢になったことがある。それ以来、拒水状態になって、一切水を飲まなくなったんです。水分はコーヒーとお茶で取るんです。ドクターに「コーヒーやお茶でシャワーを浴びますか?」と、水を飲むよう言われました。

 入院したのは1週間。3日目には、こっそり車を取りにいきました。ばれなかった(笑)。恥ずかしい話だけど、50年間、バスも電車も乗ったこともない。どこに行くのも全部車。体の一部です。退院して何日目かに、岐阜であった映画のロケに行った。病気のことはスタッフには何も言わなかった。

 14、15年前から胆石の持病があって、今年3月にエコーで見てもらったら、4・8センチくらいの異物が腎臓に見つかりました。血液検査の紙をもらったら、「血液採取の目的」の所に「がんの疑い」って書いてあるんです。

 最初、それを見て考えたのは同窓会のこと。みんな病気の話ばかりなんですよ。「これでみんなに仲間入りできる」ってことです(笑)。あんまりびっくりしなかったな。僕らの年齢になると、大なり小なり、いろんな病気がありますからね。周りはあんまりみんな驚かなかった。「ああそう、がん?」みたいな感じで。そう見せていたのかもしれない。僕自身も動揺していなかった。

 検査で悪性だということが分かりましたが、不安はなかった。サウナにも行き、車の運転ももちろんしていました。手術は5月。目が覚めたら、記念に携帯電話のカメラで自分を撮りました。管だらけでしたが、「結構ちゃんとしてるな。これなら次の現場に行ける」と感じました。

                   ◇

 がん細胞の成長を抑えるためのインターフェロンを皮下注射してますが、熱が出て、きつい。「ステージ3のがんだからやっておいた方がよい」と言われた。セカンドオピニオンとして、昔からの友人であるドクターに聞いたら、「やんなきゃならない」と。

 解熱剤の多用は腎臓に良くないと言われたので飲まない。食欲はちゃんとあるし、ちょっと我慢すれば大丈夫。

 僕はね、パリ・ダカに出るまではずっとテニスをやっていたんですよ。右腕を鍛えるために、多い日は1千本くらいサービスを練習しました。それで体を強化してきた。今は鍛えていた“遺産”が残っている。そんな感じですね。いつまで持つか分からないけれど。

 車やマージャンの人口が減っていると聞きますが、僕にはそこでの友達は大きなポイントですね。病気があったとき、助けになり、元気をもらっていたかもしれません。

2010年10月15日 産経新聞

| 腎臓がんが治った体験談 | |
進行抑える分子標的薬 がんの最新医療を追う

 腎細胞がん(腎がん)治療がここ1、2年で大きく変わってきた。転移・再発するとこれまでは決め手になる治療法がなかったが、新タイプのがん治療薬である分子標的薬が相次いで登場、がんの進行を抑えることができるようになった。

 腎がんは腎臓がんの一種で、がんが主に腎臓内の尿細管上皮細胞にできる。早期に発見できれば、腎臓の部分切除か全摘出によって治るが、腰痛や血尿などの症状が出たときにはすでに進行しているケースが多い。

 都内に住む吉田健一さん(仮名、68)は2007年6月、尿に血が混じっていることに気がついた。痛みはない。精密検査をすると、腎がんが見つかり、すでに肺に転移するなどかなり進行した状態だったという。

新薬承認が相次ぐ

 手術という選択肢もあったが、がんが大きく広がっており、治る見込みは小さい。当時、唯一の薬物療法だった「サイトカイン療法」を選んだ。しかし、インターロイキン2では意識がもうろうとなるほどの高熱に見舞われ、インターフェロンαでもうつ状態に陥るなど副作用がひどく、治療を断念せざるを得なかった。

 そんなとき、腎がん向け分子標的薬「ネクサバール(一般名ソラフェニブ)」の承認が近いことを知る。08年6月から毎日、ネクサバールを飲む生活が始まった。その後、仕事にも復帰できた。がんが小さくなったわけではないが、大きくならないままじっとしている状態がほぼ2年続いている。吉田さんは「この薬のおかげで、がんと折り合いをつけながら生きることができる」という。

 ネクサバールはがんに栄養分を送り込む新しい血管ができにくくなるように分子を設計して作った低分子薬だ。慶応義塾大学の大家基嗣教授は「がんのなかでも腎がんにはとくに血管がたくさん集まってくる。血管新生阻害薬がよく効く」と説明する。ネクサバールの後にでてきた「スーテント(同スニチニブリンゴ酸塩)」も同じタイプで、投与後、がんの大きさが3割以上小さくなる患者の割合がおよそ半分で、欧米よりも治療成績がよいという。

 今年に入って「アフィニトール(同エベロリムス)」が承認された。近く「トリセル(同テムシロリムス)」が新たに使えるようになる。この2つの分子標的薬はがん増殖にかかわるたんぱく質「mTOR」を標的にしている。ネクサバールやスーテントが効かなかった場合の治療薬として期待がかかる。「選択肢が増えることで、患者の状態にあったベストな治療ができる」(大家教授)

 大きく様変わりした腎がんの薬物治療で当面の課題は副作用問題。分子標的薬ががん細胞に狙いを定めて攻撃するといっても、患者によっては治療の継続が難しくなるほどの副作用がでることも。スーテントなどの血管新生阻害タイプでは普通の抗がん剤ではあまりみられない「ハンドフットシンドローム」という手足の皮膚障害に悩まされる。

 薬価ベースで毎月数十万円にのぼる治療費も大きな問題だ。高額療養費支給制度を使えば患者負担は一定額を超えることはないが、それでも薬を飲み続けなければならず、家計へ重くのしかかる。

治療の標準化急ぐ

 短い期間で新薬が次々と登場したことで、医療機関によっては治療に違いが出て、患者を惑わすことも想定される。米国などでは手術が難しい場合には分子標的薬が第一選択肢だが、日本では転移が肺にとどまっていると、まず、サイトカイン療法を試みるケースも多い。がんが縮小する奏功率が1〜2割と欧米よりも高く、実績を優先する医師も少なくないからだ。

 腎がん治療に取り組む都内の全大学病院とがん専門機関は「腎がん分子標的薬治療コンファレンス」を立ち上げ、薬剤ごとに治療効果や副作用について医師らが定期的に話し合っている。帝京大学の堀江重郎主任教授は「最新の情報をいち早くシェアすることで、日本人にあった腎がん治療の標準化が実現できる」と話している。

▼分子標的薬
 分子生物学を駆使してがんが増殖・転移するメカニズムを解明し、悪さをするたんぱく質の働きなどを抑え込むように設計してできたがん治療薬。細胞分裂に狙いを定めてがん細胞をたたく普通の抗がん剤が、正常細胞も同じように攻撃してしまうのに対し、がん細胞特有の分子をターゲットにする。
 2001年日米欧に登場した慢性骨髄性白血病治療薬「グリベック」が最初とされる。それまで不治の病だった白血病でも治るようになり、「魔法の薬」ともいわれた。その後、肺がんや乳がんなど様々ながんを対象に開発され、現在ではがん治療薬の主役になっている。
 当初はがん細胞のみを攻撃するため、副作用が少ないとみられていた。世界に先駆けて日本で承認された「イレッサ」では間質性肺炎で死亡するケースが相次いで、社会問題になった。今では、分子標的薬ごとに従来の抗がん剤とは異なる副作用がでるとみられている。

2010年7月23日 日本経済新聞

| 腎臓がんが治った体験談 | |
小橋結婚!元アイドルの演歌歌手と結婚することが分かった小橋建太


 プロレス団体「ノア」の取締役副社長でプロレスラーの小橋建太(43)が、かねて交際していた演歌歌手・みずき舞(36)と結婚することが20日、分かった。今秋に入籍し、来春に披露宴を開く。みずきは細江真由子の名でアイドルとしてデビューし、演歌歌手に転身を機に改名した。猛練習とリング上での妥協しない戦いぶりで「プロレスと結婚した」と言われてきた小橋だったが、06年の腎臓がんの手術など度重なる苦難も2人で乗り切り、交際10年で人生のタッグパートナーを得ることになった。

  ◇  ◇

 “プロレスと結婚した男”小橋建太が、元アイドルのとびっきりの美人演歌歌手と結婚することになった。

 お相手のみずき舞は、92年に本名・細江真由子でアイドル歌手としてデビュー。04年からは演歌歌手として現在の芸名で再出発し、細身の美人歌手として幅広い年代から人気を集めている。

 関係者によると、00年に知人の紹介で知り合い、交際に発展した。昨年から一緒に生活を始め、結婚は今年に入ってから決めたという。今秋入籍し、親族だけで挙式。披露宴は来春行う。

 デビュー前は無名の存在も、猛練習を重ねてトップレスラーに上り詰めた。一切妥協しない戦いを繰り広げ、そのプロレスを愛する姿勢とアラフォーまで独身を通したことから「プロレスと結婚した男」と呼ばれたこともあった。

 数々のタイトルを手にした小橋だが、近年は体が悲鳴を上げている。06年6月には腎臓にがんが見つかり、右腎摘出の大手術を受けて復帰を果たしたが、今年1月には右ヒジの神経がマヒする「肘部管(ちゅうぶかん)候群」の手術を受けた。

 幾度の選手生命の危機に陥り、生命を脅かす病も患った小橋だが、そのそばにはどんな時もみずきがいた。仕事の合間をみては、入院中の小橋のもとへと足を運び、手術には必ず立ち会った。

 腎臓がん手術の際は数日間、病室でずっと付き添って励まし続け、体が満足に動かない体重115キロの小橋を、みずきが小さな体で支える姿もあった。体に良い料理を作るなど献身的な支えが、小橋の不屈の闘志の源となり、不死鳥のごとく復活へとつながった。

 現在、小橋は年内復帰に向けてリハビリを進めている。結婚を決めたのは「絶対に立ち上がる。もう一度リングに立つ!」と再起に向け、しっかりした足固めをしようとの思いから。昨年6月13日、試合中の不慮の事故で亡くなった、尊敬する大先輩、三沢光晴さんの1周忌も明け、15日放送された人気番組「踊る!さんま御殿」に出演した際に初めて10年来の恋人の存在を打ち明けた。

 ノア戦士・小橋は愛するパートナー、みずきを箱舟に乗せ、人生の航海に出る。

2010年6月20日 デイリースポーツ

| 腎臓がんが治った体験談 | |
地雷撤去 命の限り 
がん転移と闘う相庭さん 福岡発NGO 山形で広める

山形県弁護士会主催の講演会でカンボジアの写真を手に地雷撤去への協力を呼び掛ける相庭博さん=2008月11月、山形市
山形県弁護士会主催の講演会でカンボジアの写真を手に地雷撤去への協力を呼び掛ける相庭博さん=2008月11月、山形市
 がんが発覚して5年。腎臓から肺、肝臓、肋骨(ろっこつ)へと転移した。入退院や手術を繰り返す。くじけそうになることもある。それでも、山形県酒田市の相庭(あいば)博さん(63)には「命ある限り」と思い定めている目標がある。カンボジアでの地雷撤去。福岡で立ち上がった非政府組織(NGO)の活動の輪を東北で広げる。

 山形の地元民放局で報道制作局長をしていた2005年2月、右腎臓がんと分かった。半年後に左肺に転移。「長くて3年」と覚悟した。放送局は退社。「残された命を何かに燃やしたい」と考え始めた。

 思い出したのは系列キー局が展開していた地雷ゼロキャンペーン。戦争や内戦で対人地雷が無数に埋められ、子どもたちを含め多くの人の命や手足を奪っていることは知っていた。インターネットで「カンボジア地雷撤去キャンペーン」(略称CMC)を探し出した。

 福岡市でイベント企画会社を営む大谷賢二さん(58)が12年前、一人で始めたCMC。相庭さんは「自分の目で実情を知りたい」と、カンボジアの地雷原などを見学するCMCのツアーに06、07年と参加した。最初の旅で「私で役に立つなら」と、東北事務局を買って出る考えを大谷さんに伝えた。

 06―09年に山形県内で写真展を15回、講演を8回、映写会を2回。「100円で地雷原1平方メートルをきれいにでき、1万円前後で1人分の義足を提供できる」と訴えた。

 その間、がん右肺、肝臓、肋骨などにも転移。昨年は4回、今年も1月に入院した。がん剤の副作用で体はだるい。身長175センチで体重は44キロ。闘病前から20キロ以上減った。

 苦しいときは、地雷で手や足を失ったカンボジアの子どもたちのことを考える。「成長過程にある子どもたちの痛みや苦しみを思えば、自分はもっと頑張れるはずだ」

 3年と思った命は6年目に入った。体力は落ちたが、それなりにできることはある。「労力のかかる写真展は無理でも、地雷撤去をテーマにした図書の朗読会なら可能ではないか。そして、東北の中心地である仙台市で何かしたい」と思う。

 2月、CMCの口座には相庭さんから活動資金として21万9147円の振り込みがあった。

2010年3月22日 西日本新聞

| 腎臓がんが治った体験談 | |
小野ヤスシ、がんだった…1月右腎臓全摘出

 タレントの小野ヤスシ(69)が今年1月に腎盂(じんう)腫瘍のため、右の腎臓の全摘出手術を受けていたことが5日、分かった。

 この日、都内のホテルで開いた自身の「芸能生活50周年をそれとなく祝う会」で、「手術は12時間半。術後3日間は10本の(注射)針が刺さっていました」と明らかにし、「今日、健康な体でみなさんに会いたかった」と感無量の表情で語った。

 小野や小野の長女、菜々美さん(27)によると、昨年11月中旬、定期検診で腎盂(腎臓と尿管をつなぐ部分)腫瘍がみつかり、1月12日に入院。同14日に手術し、2月14日に退院した。

 この日は4時間近いステージを自らの司会で仕切り、「アイ・キャント・ストップ・ラビング・ユー」を力強く歌うなど大手術の後とは思えぬパワーを見せつけた。

 発起人の俳優、小林桂樹(86)、タレントの加藤茶(67)、左とん平(72)をはじめ、俳優の里見浩太朗(73)、シンガー・ソングライターの松山千春(54)ら約700人が駆けつけた。

2010年3月6日 

| 腎臓がんが治った体験談 | |
腹腔鏡下 小切開手術 腹部に小さな切り口1カ所 体に優しく回復早く

 おなかの一カ所を小さく切開するだけで、腹腔(ふくくう)鏡を使って前立腺がん腎臓がんなどを除去する「腹腔鏡下小切開手術」が、泌尿器の分野で広がってきた。患者の体の負担も、器具の使い捨ても減らせる利点がある。 (野村由美子)

 名古屋市の名鉄病院。手術台の前立腺がん患者の下腹部が、電気メスで縦に五センチほど切開された。開創器で傷口を開き、真上から腹腔鏡がセットされる。泌尿器科部長の成島雅博医師は、モニター画像と傷口を交互に見ながら、手術を進めた。癒着のひどい前立腺を慎重にはがしていく。ほかの医師二人も、モニターを見ながら出血を吸引したり、止血を手伝う。五時間ほどかけて、前立腺が取り出された。

 難しい手術だったが、患者は翌日から歩けて、食事も全がゆを食べられるようになった。

 腹部のがんなどの手術は、開腹と腹腔鏡がある。腹腔鏡手術は、患部から離れた場所に内視鏡用の穴と、患部の左右に電気メスや鉗子(かんし)などを入れる穴(いずれも一センチ前後)を計三〜五カ所開け、モニターで体内を見ながら手術していく。

 これに対し、腹腔鏡下小切開手術は、一カ所の切開場所から直接患部を内視鏡でのぞき、電気メスなどもそこから操作する。モニターと直視の両方で手術するため、遠近感をつかみやすい。大量出血などの緊急時にも即応できる。

 成島医師は「通常の腹腔鏡手術は、非常に高い技術が必要になるが、小切開手術は開腹手術の切開部を徐々に小さくしていく形で取り入れられ、習得しやすい」と話す。

 傷口が小さいため患者の回復も早く、入院は「開腹手術の半分程度」。手術費用は開腹手術よりかかるが、入院期間が短く、術後の処置も少ないため、全体では開腹手術と変わらないという。

 この方法は、十年ほど前に東京医科歯科大泌尿器科の木原和徳教授らが確立した。従来の腹腔鏡手術でも、最後に臓器を取り出す際には、内視鏡の穴を五センチ前後に切り開く必要がある。「ならば最初から、一カ所の切開部だけで手術操作をできないか」と発想したのが始まりだった。

 合併症を防ぐ目的もある。腹腔鏡手術の場合、手術空間を作るため、二酸化炭素(CO2)を入れて、おなかを膨らませる。この処置が静脈を圧迫して血流を悪くしたり、血栓や肺塞栓(そくせん)を起こしたりすることがある。

 小切開手術の場合は、患部の真上を開くため、CO2を使わない。また腹腔鏡手術で使う器具は高価で、大半が使い切りだが、小切開手術は開腹手術と共用できる器具も多い。

     ◇

 小切開手術で健康保険が適用されるのは現在、腎、尿管、副腎の腫瘍(しゅよう)、前立腺がんなどの手術。名鉄病院のほか、愛知県の豊橋市民病院、愛知医科大病院、三重大病院、東京医科歯科大病院、横浜市立病院などの泌尿器科で実施している。

 また、一部自費診療となる先進医療の認定を受けているのは膀胱(ぼうこう)がんや後腹膜腫瘍、泌尿器がん転移のリンパ節などの手術。名鉄病院、豊橋市民病院、三重大病院、東京医科歯科大病院、東京厚生年金病院などが行っている。

 ただ、保険施設の認定基準が非常に厳しいため、実施医療機関の数が伸びない。認定を受けるためには、最低十例、最大四十例の無料手術の実績がいる。小切開手術を進める医師らでつくる「日本ミニマム創泌尿器内視鏡外科学会」は今後、基準緩和などを国に働き掛けていくという。

 「従来の腹腔鏡手術も非常に優れた技術。双方の技術を融合させて、より安全で負担の少ない手術を目指したい」と成島医師は話している。

2010年2月5日 中日新聞

| 腎臓がんが治った体験談 | |
がん克服しよう 患者組織の支部設立 三田 

がんを克服する手段の一つとして知ってほしい」と高野さん=三田市富士が丘

 生活習慣の改善でがんの克服を目指す患者らでつくるNPO法人「ガンの患者学研究所『いのちの田圃の会』」(横浜市)の三田支部が設立された。世話人代表の高野恭允さん(64)=三田市=は「がんを治すんだという強い気持ちが大切と伝えたい」と話しており、活動を広げるため5日に宝塚で小冊子を配布する。

 同法人は1997年、元NHKディレクターの川竹文夫さんが設立した。川竹さんは腎臓がんを患ったのを機に教育テレビスペシャル「人間はなぜ治るのか」を制作。がんを克服した国内外の人の体験談を集めた番組で、大きな反響を呼んだ。

 同法人ではがんになりやすい原因として、ライフスタイルの乱れ▽食生活の乱れ▽ストレス-の3点を挙げ、規則正しい生活や玄米菜食、心の持ちようの改善などを訴える。

 高野さんは51歳のときに肺がんが見つかり、1年後に手術を受けた。しかし3年後に再発し、再び手術。さらにその2年後にも再発したが、同法人を知り、生活習慣を改善しながら自宅で過ごす。

 もともとは同会の天王寺支部に所属していたが、2年前に三田へ転居して1月に三田支部を設立した。支部では月1回例会を開く予定で、高野さんは「医師の治療や薬任せにならず、自分も積極的に治そうとすることが重要。一緒に病気に立ち向かう“同志”を増やしたい」と話している。

 5日は午前11時〜正午、宝塚駅前のJRと阪急の連絡橋で、川竹さんが執筆した冊子「すべては、あなたが治るため〜ガンをはねのけ生き抜く力」(B6版、74ページ)を配るという。

 同法人事務局TEL045・962・7466

2010年02月01日 神戸新聞

| 腎臓がんが治った体験談 | |
 映画「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」の初日舞台あいさつが12日、都内で行われ、主演南翔太(27)らZAP隊員役5人とウルトラマンゼロの声を務めた宮野真守(26)、坂本浩一監督が登壇した。女性副長役の上良(かみりょう)早紀(27)はあいさつで声が詰まり、客席から「頑張れ〜」と声をかけられた。「イベントで皆さんからたくさんのパワーを頂いて、今日まで頑張ってこれた。胸がいっぱいです」と涙目で言葉をつないだ。隊長役の小西博之(50)も万感の表情でマイクを握り、「5年前に末期がんと診断されて、生き返った後、これが初めてもらった仕事でした。子供のころからウルトラマンの隊員になりたくて、40歳を過ぎて隊長になれた。こんなに幸せなことはない」と話した。

映画:ついに激突!ウルトラマンVS仮面ライダー

 映画「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説THE MOVIE」と「仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイドMOVIE大戦2010」が12日、公開された。今年で生誕43年のウルトラマンと、同38年の仮面ライダーの映画が同一日に封切られるのは初めて。「大怪獣…」はシリーズ最高の興行収入10億円、「仮面ライダー…」は同20億円を見込んでいる。

 東京・新宿ミラノで行われた舞台あいさつで、隊長役の小西博之(50)は「腎臓がんから復帰して初めてもらった仕事。40歳を過ぎて隊長になれて幸せ」としみじみ。「仮面…」の吉川晃司(44)は東京・丸の内TOEIに登場。伝説のライダー「スカル」に変身し「(主人公から)“おやっさん”って言われた時はどうしようかと思った」と笑わせた。(スポニチ)


| 腎臓がんが治った体験談 | |
腎臓がんの遺伝子治療、年内にも開始 − 京都府立医大

 京都府立医科大学の三木恒治教授らは24日、進行した腎臓がん患者を対象に、新たな遺伝子治療の臨床研究を年内にも始めると発表した。がん細胞の増殖を抑える「インターフェロンベータ」というたんぱく質を作る遺伝子をがんが転移した患部に注射する。腫瘍(しゅよう)の縮小や生存期間の延長を目指す。

 厚生労働省の認可をこのほど得た。臨床研究の期間は3年間。腎臓がんの大半を占める腎細胞がん患者で、肺やリンパ節、肝臓などへの転移が見つかった5人が対象。腎臓を摘出し、一般的な治療である分子標的治療薬や免疫療法で効果がみられなかった患者に実施する。

2009年11月25日 日本経済新聞

京都府立医大が腎がん転移に遺伝子治療へ

 京都府立医科大の三木恒治教授(泌尿器科)のグループは24日、がん細胞の増殖を抑えるインターフェロン遺伝子を、腎がんから転移したがん組織に注射する遺伝子治療の臨床試験を、年内にも始めると発表した。厚生労働省がこのほど試験の実施を承認した。

 用いる遺伝子治療薬は、ヒトβ型インターフェロンを作る遺伝子を組み込んだプラスミド(環状DNA)で、名古屋大が開発し、脳腫瘍(しゅよう)などの臨床試験に用いている。腎がん患者へ実施するのは府医大が初めて。

 転移したがんに繰り返し注射して増殖を抑える。マウスの実験ではがん細胞の増殖が抑えられ、副作用はほとんどないことを確認したという。

 対象は、がんになった腎臓を手術で摘出したが、肺や肝臓などに転移し、免疫療法や薬による治療効果も上がらない患者。2年間で5人の患者に安全性を確かめる試験を行った上で、有効性を確かめる試験を実施するか検討する。
 三木教授は「注射で投与できるため、患者の負担が少ない。安全性と有効性を確かめ、将来的に保健医療として定着させたい」と話している。

2009年11月25日 京都新聞

| 腎臓がんが治った体験談 | |
プロレス・ノアの定期健康診断が行なわれ、他の選手同様、小橋も受診した。この健診で、小橋の右腎臓に腎臓がん=腫瘍が発見された。後に判明したことだが、悪性の腎臓がんであった。当然、無期限の長期欠場に追い込まれ、小橋は三度リングを離れることになった。
レスラー小橋建太にとって最強の敵、腎臓がんとの戦いが始まった。

告知から12日後、2006年7月6日、小橋は手術に踏み切った。へそ下5cmのところを10cm切開した他、計6箇所腹部にメスを入れた。内視鏡を使った腹腔鏡手術であったが、通常の人より筋肉が多かった為、手術時間は5時間半にも及んだ。小橋の右腎臓は全摘出された。腎臓がんの腫瘍は5cm大にも及ぶものであった。手術後数日は、傷口の激痛に襲われ、小橋はベッドの上で身動きが出来なかった。

7月29日に退院。ここから、壮絶なリハビリ生活が始まった。腎臓という臓器は、血液中の老廃物をろ過する器官。一つになった腎臓の負担を考え、徹底した食事管理と、運動制限を続けながら、日常生活への復帰だけでなく、プロレスのリングへの復帰を目指した。驚くことに、退院の翌月には腹筋運動を始めていたという。そして、今年2007年8月、ノアの道場でプロレスの練習を再開。一ヶ月に一度の精密検査の数値を気にしながら、鉄人はひたすらトレーニングに励んだ。

腎臓に負担がかかった場合、最も懸念されるのが、脱水症状だという。しかし、そんな状況にも拘らず、この夏小橋は猛暑の中、高温多湿の道場で連日ハードな練習に取り組んだ。汗を流し、技を放ち、技を受け、小橋は自らの肉体の限界に挑戦した。
そして、・・・。
迎えた10月の精密検査。数値は良好。小橋は、真夏の猛特訓をも耐え切った。そして何より、最も警戒していた、転移と再発は無かった。ついに、正式にGOサインが出た。腎臓がんを克服し、リングへの復帰を果たす時が来た。

歴史上、臓器の摘出手術を行い、がんを克服してリングに帰ってきたレスラーは、まだ存在しない。



「がん克服」レスラー 小橋健太さん

2007年12月25日
  生きろ 何かできる

 12月2日、「鉄人」と呼ばれる男がリングに帰ってきた。プロレスラーの小橋建太さん。腎臓がんを乗り越え、546日ぶりの復活を果たした。鍛え上げた肉体を武器に、数々のチャンピオンベルトを巻いた「伝説の男」が病魔とどう向き合ったのか。闘病生活や復帰後の目標を語ってもらった。

 ――腎臓がんを克服して、見事にリングへ復帰されました。

 復帰が決まると、プロレスを続けることが目標になりました。頑張る姿がファンの勇気につながると思う。みんなが喜んでくれたからこそ、期待をはるかに超える試合をしたかった。

 ――がんを告知された時の気持ちは。

 「がん」「死」「プロレスができない」。この三つがイコールで結ばれた。部分切除を希望したが、医師は「まず生きましょう。生きていれば何でもできる」と生存率の高い右腎臓の全摘出を勧めた。まず、生きるために頑張りました。

 ――術後も体調がすぐに戻らなかったそうですが。

 去年7月の退院後、10月ごろまでだるさがあった。買い物に行っても、座るだけでもつらい。底なし沼から上がれないような精神的な落ち込みもありました。

 ――闘病生活の支えとなったのは。

 復帰したいという気持ちとファンの力です。たくさんの千羽鶴やメール、手紙が届いた。「生きていてくれればいい」「リングに帰って来て」と。夢のチャンピオンベルトを手に入れ、多くの賞を取った。でも、自分を支えてくれたのはファンの声援でした。

 ――プロレスラーをめざしたきっかけは。

 幼い頃、ジャイアント馬場さんがチャンピオンベルトを巻く姿にあこがれた。ビスケットの缶を切って手製のチャンピオンベルトを作ったこともあります。

 ――高校卒業後、京セラに入社されました。

 母が女手一つで育ててくれた。迷惑をかけたくなかったので、サラリーマンになろうと思いました。

 ――2年後、一転して全日本プロレスに。

 (プロボクサーの)マイク・タイソンの新聞記事を読んだ。裕福でなく少年院にも入ったが、KOの記録を作った。すごいやつが出てきたと。おれは今の仕事がしたかったのか、と考えました。本当にやりたいのはプロレスでした。

 ――お母さんは心配しませんでしたか。

 反対されました。いまの生活を捨てて厳しい世界に行くことはないと考えたのでしょう。ただ、僕は言い出したら聞かなかった。頑固なので。

 ――小橋さんにとってプロレスとは何ですか。

 がんの告知直後、プロレスラーの20年間がフラッシュバックした。小橋コールを受けている姿、チャンピオンベルトを巻いた姿が頭をよぎった。それくらい大切なものです。

 ――今後の目標は。

 プロレスの輪を広げ、つらい思いをしている人を元気づけたい。リングに立ち続けて一試合一試合を頑張りたい。子どもたちに夢を与えられる選手になりたい。

 ――最後にファンや読者にメッセージを。

 病気で苦しんだり精神的に悩んだり、みんな何かを抱えている。あきらめないで、つらい時を乗り越えれば喜びがあると信じて、精いっぱい生きましょう。

 こばし・けんた(本名・小橋健太) 67年、福知山市生まれ。京セラでは滋賀の工場などで勤務。プロレスラーに転じ、闘志を前面に出すファイトスタイルと実直な人柄で人気を集め、全日本プロレスやプロレスリング・ノアの主力として活躍。がんを克服した12月2日の復帰戦には1万7千人が詰めかけた。

 ◆小橋建太さんの軌跡

85年 福知山高校卒業
87年 全日本プロレス入門。翌年デビュー
90年 初のチャンピオン「アジア・タッグ王座」を獲得
00年 新団体「プロレスリング・ノア」の設立に伴い移籍を発表
01年 ひざのけがで長期欠場
02年 けがから復帰。鉄人と呼ばれる
03年 ノア最高峰のGHCヘビー級チャンピオンに
06年 腎臓がんと診断される(6月)
07年 ファンに「レスラー小橋建太として戻ってきます」と宣言(10月)
同  日本武道館で546日ぶりにリングへ復帰(12月)

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