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癌(がん)が治った、癌(がん)が良くなった、癌(がん)が回復した体験談情報
がん克服、そば打ち復活 玉名市の池田さん 商店街で出張営業 休業から1年3ヵ月ぶり 7月3日に店も再開

 玉名市岱明町の手打ちそば店「もちの木」の店主池田勇二さん(65)が、13日まで同市内で開催中の「高瀬裏川花しょうぶまつり」に合わせて、同市高瀬の中町商店街でそば店の出張営業をしている。昨年3月、鼻腔(びくう)がん治療に専念するため休業。闘病生活を経て約1年3カ月ぶりに仕事に復帰した。7月3日に自分の店も再開する池田さんは、生きる喜びをかみしめながら「とびきりうまいそばを提供する」と張り切っている。

 池田さんは東京の会社で定年まで勤め上げ、2005年3月に妻の実家の古民家を改良して「もちの木」をオープンさせた。「仲間同士で気軽に交流できる場をつくろう」と、店で異業種交流会やパソコンの勉強会なども開いてきた。

 順調に営業を続けていた昨年2月、検査で鼻腔がんが発見され、国立がんセンター(東京)に入院。店は翌月から休業を余儀なくされた。入退院を繰り返しながら「(先のことは)どうなるか分からない」と不安は募ったが、病気を克服。昨年11月、玉名に戻った。

 中町商店街の店は、まつりが開幕した5月29日に空き店舗を借りて営業を始め、観光客で連日にぎわっている。

 会社勤め、そば店の開業、そして闘病生活からの復活。池田さんは再出発を「第3の人生」と表現し、「がんになり、そばづくりこそ自分の生きがいだと思った。そばがあるから人との交流が広がった」と話す。

 「もちの木」は毎月第3木曜にがん患者同士が支え合い、悩みを相談する「がんサロン」を開いている。

2009/06/09 西日本新聞

| 鼻腔がんが治った体験談 | |
手術で顔変形 自ら励まし

「庭に花を植えるのが趣味。自分に日々『がんばれ!』と言い聞かせています」と話す女性(山形県の自宅で)

 「場所こそ少し違うけれど、私と同じ顔のがん。そして同じ36歳。励ましになるかどうかわからないけれど、手紙を書きました」

 山形県の女性(36)は、鼻の奥にできる「鼻腔(びくう)がん」で手術を受け、顔が変形した体験をつづった。

 「道行く人はギョッとしていると思いますが、いちいち私が傷ついていたら、普通の生活はできなくなると思います。だから日々、自分に『がんばれ!』と言い聞かせています」

 取材を快諾し、山形のある駅で、記者を出迎えてくれた。

 3人の子を育てながら、旅館を手伝い、幼稚園の役員を引き受ける活動的な毎日を送ってきた。2004年秋、実家の母に「鼻の付け根が腫れている」と言われ、病院に行った。その2年前から時折、鼻血が出たが、よもや「がん」とは思っていなかった。

 「緊急手術が必要」と、東京都内の病院を紹介された。鼻の付け根の奥だけでなく、右目の周り、頭骨の内側の膜にもがんが広がっていた。頭骨を開いて内側を削り、ももの筋肉と血管、神経をほおに移植した。手術は21時間に及んだ。

 手術後、自分の顔を鏡で見て、慄然(りつぜん)とした。鼻が大きく曲がり、右目が後ろにへこんでいる。両眼の位置が違うので、ものが二重に見える。

 「どうしてこんな顔になると教えてくれなかったの?」。医師に詰め寄った。

 「説明していたら、手術を受けなかったでしょう?」。医師は問い返した。

 そうかもしれない。でも、3人の子の母として責任があった。退院後すぐ、二男の幼稚園の卒園式に出た。母親友達は、偏見なく迎えてくれた。それで、家に引きこもらずに済んだ。

 変わってしまった顔、再発の恐怖……。外では明るく振る舞っても、家に帰ると自暴自棄に陥った。

 ある晩、「もう、どうせ死ぬんだし」と涙声で言うと、「それを聞いたおれが、どれだけつらい思いをしているか、わかるか!」と夫が声を絞り出した。

 はっとした。いつもそばで黙って支えてくれる夫がいたのだ。

 3年半、再発はない。顔立ちを再建する手術を受けたが、移植した組織が着かず、うまくいかなかった。納得がいくまで挑戦したい。「再建については、私も情報が欲しいです」と話す。

 兵庫県の男性に伝えたい。「つらいけれど、苦しいけれど、丸ごと自分を受け入れ、直視するしかない。不安はしようがない。不安は当たり前。がんばれ、がんばれ、がんばれ……」

(2008年6月3日 読売新聞

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