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癌(がん)が治った、癌(がん)が良くなった、癌(がん)が回復した体験談情報
15年前がんで左足を失い、セグウェイは歩行用補助器具として使っていたんですよ。特に坂道は歩くのも一苦労なので。車椅子と違ってセグウェイは小回りがきくし、立ったままの姿勢が保てるので、相手と同じ目線で話をして自由に動き回れるからということで...。

メリッサは1995年に間葉性軟骨肉腫(肉腫がんの一種)と診断されました。当時3歳と5歳と9歳になる子どもを抱え、「5年生き残る確率は50%」と言われた人です。腫瘍を小さくする目的で化学療法にも数ヶ月耐え抜いたのですが、効果がなかったため、結局ひざから上を切断しました。

ゆっくり習得する過程を経て、今では義足で効率良く歩き回れるまでになっています。が、長距離移動は困難で、義足で長く歩くと痛くなることもしばしば。それを見兼ねた夫(おじ)が2001年、ひとりで歩き回れるようセグウェイを購入してあげたんですね。

名医とちょっとした運に恵まれたお陰でがんの再発もなく、おばはセグウェイに乗って世界中を旅しています、からだの不自由さに決してとらわれることなく。セグウェイは世界中お供して回り、子ども(と義家族)と一緒の暮らしでも重要な役割を果たしていますよ。みんなペースを合わせなくて済むんです。

この話題には僕自身とても関わりが深いんです。おばの闘病経験がきっかけとなって腫瘍専門の整形外科医の分野を志し、今は彼女みたいながんを抱える若い人たちの治療に当たっているものですから。僕は当時シアトル在住で、フレッド・ハッチンソン癌研究所とシアトルがんケア連合(SCCA)で研修医を務めていたんです。

からだが不自由な人全体の中では、患肢救済のある無しに関わらず腫瘍切除手術で手足を失った若い人は本当に少数派。それはおばを通して実感しました。車椅子専用駐車レーンに停めたり、セグウェイに乗ってショッピングモールを移動すると、人に怒鳴られるわけですよ。でも、なにも80歳の車椅子の老人だけが障害抱えてるわけじゃないんですね。イラクやアフガニスタンから手足を失って帰還した若者を見ても分かるように。そこのところはもっと意識を高め、社会の受け入れ態勢を整える必要がありますね。

ADAとセグウェイで検索すると、この今までにないデバイスをQOL(生活の質)改善に活用する方面では、うちのおばみたいな人たちがパイオニアだったことがわかります。最初の「アメリカ障害者法」(The Americans with Disabilities Act=ADA、障害を持つアメリカ人法とも)は1992年に作成されましたが、補助器具に盛り込まれたのは3輪と4輪だけだったんですよ。2輪車は実現が何年も先と思われていたので。

あの写真では僕の娘のベビーカー押しながら道を横断していますけど、あれは夕食の買出しにスーパーに行ったからああなってしまったんです。12年前に50/50の生存率だった人が、自力でシアトルまで旅して、僕と妻(ともに医師)が勤務中はこうして甥の娘の面倒も見て、僕らが帰宅した頃には晩ご飯の支度までちゃんとできていたんです。僕にとってこんな素晴らしい話はないですし、それにも増してこんな素晴らしい人はいませんよ。

2010年8月13日 GIZMODE

| 骨肉腫が治った体験談 | |
がん患者 1人じゃない

がんになっても孤独じゃない。みんなで楽しく話をしよう」と話す横山光恒さん=岐阜市

 がん患者と家族らがチームを組み、24時間歩いて理解や交流を深めるチャリティーイベント「リレー・フォー・ライフin中部2009」が10、11の両日、岐阜市の岐阜大学グラウンドである。東海北陸地方での開催は初めて。実行委員長の横山光恒さん(40)は「みんなでつながり合おう」と参加を呼びかけている。(贄川俊)
 イベントは、85年に米国の医師が対がん運動をする団体への寄付を呼びかけて、24時間走り続けたことがきっかけで始まった。増殖し続けるがん細胞に負けないように、という思いが込められている。国内では06年の茨城県つくば市が最初で、08年までに9カ所で開催された。
 今回は、約40団体の500人以上が参加予定。バザーや屋台の出店のほか、患者らが気軽に話せる場所も用意される。10日夜は、がんで亡くなった人をろうそくの灯で追悼する「ルミナリエ」もある。
 横山さんも、がん患者だった。05年8月、右腕の付け根に8センチ角の腫瘍(しゅ・よう)が見つかった。骨にできるがん「ユーイング肉腫」だった。抗がん剤と放射線治療を受け、手術で取り除いた。
 副作用で髪の毛が抜け、手足がしびれ、何を食べても味を感じなくなった。まだ2人の子どもが幼かった当時、再発への不安や孤独感にさいなまれ、自殺も考えたという。そんな時、つくば市のイベントを知り、参加した。
 がん患者ばかりでグラウンドを1周する「サバイバーズラップ」には、闘病でやせ細ってつえをついたり、車いすで参加したりする人の姿があった。会ったこともない人ばかりなのに、その一体感に鳥肌が立った。「支えてくれる人がいる。1人じゃない」
 その後、患者同士が定期的に語り合う会を作るなどの支援活動を始めた。「中部でもがんに立ち向かう輪を広げたい。孤独な人はまだまだいると思う」と横山さん。つくば市のイベントで知り合ったがん患者らに助言をもらい、今回の開催にこぎつけた。
 今回は、10日午前11時〜翌日正午。個人の参加を募集しており、参加費は1人千円。収益は日本対がん協会などに全額寄付される。問い合わせは実行委員会へのメール(info@rfl−chubu.net)かFAX(0584・82・1278)で。

2009年10月08日 朝日新聞

| 骨肉腫が治った体験談 | |
先輩患者の助言 力に

英国の慈善団体「セービング・フェイセズ(顔を救う)」のホームページ。がんやけがで顔を損傷した患者の肖像画が掲載されている

 骨のがん、骨肉腫(しゅ)で左下あごを切除した男性(36)の記事に対する約60通の反響は、ほとんどががんであごや舌、顔などの手術を受けた患者、家族からだった。

 「病気のせいで情けないことはたくさんありますが、共に頑張りましょう」「顔の形を気にするなというのは無理な話。どうか辛抱強く、強い気持ちでお過ごしください」など、男性を気遣う内容が多かった。

 一方で「右下あごの骨を切り、ほとんど外出しません。不安です」(30歳代男性)など、「今後の生活の情報が欲しい」という要望も多かった。食事の工夫や、顔立ちを修復する手術について、いただいたアドバイスを紹介したい。

 あごを切除した後の食事は、切除した範囲と場所によって違うが、次第にミキサー食から普通食に移行したという人も少なくない。

 30年前、左下あごの手術をした60歳代の男性は「あごの筋肉は、年月がたつと力がついてきます。硬い食べ物は避けていますが、家族と同じ食事をいただいています」と書いた。

 「はしで食べ物をかみやすい位置に持っていき、かんだ後は飲み物と一緒にのみこみます。のどにつまることもあるので注意して。人によって違うので、焦らず工夫を」という女性からの提案もあった。

 顔立ちの再建手術は、がんの手術と同時に受け、スムーズに社会復帰できた人もいたが、同時には再建できなかった人も多かった。

 「再発の経過を確認しながら、3年後に右足の骨の一部を移植した」(50歳代男性)。「再建手術の傷口が開き、結局は移植した骨を取り除いた」(70歳代男性)。何度も再建手術を繰り返す例もあった。

 「特殊な義歯でかみやすくなった」「顔立ちが変わっても気にせず外出している」という人もいた。

 英国からも反響が届いた。英国で舌を手術した女性は「英国には専門医が設立した慈善団体があり、患者の心のケアにも取り組んでいます」とつづる。

 この団体では、がんやけがで顔に大きな傷を残した患者に、同じような体験をした“先輩患者”を紹介しているという。アドバイスを受けた患者は、次の患者の相談に乗る。

 患者の闘病体験や助言が、別の患者の力になることもある。生活上の困難、心の問題など患者同士が解決できる悩みは、今後も紹介していきたい。(館林牧子)


(2008年6月6日 読売新聞

| 骨肉腫が治った体験談 | |
今できること 精いっぱい


全国から寄せられた励ましの手紙を一通ずつ読み返す兵庫県の男性(大阪府内の病院で)

 「主人は皆さんからの情報だけでなく、励ましの言葉にとても勇気づけられたようです。一つ一つ読んでは、『この人も大変だったんだ』と、ノートにその方の受けた治療方法を書きとめていました。

 途中何度か『駄目だ、泣いてしまう』と言って、しばらく涙をこらえる時もありました。抗がん剤の副作用がきついのですが、『返事を書きたい』と言っています」

 全国の読者からの手紙を受け取った兵庫県の会社員男性(36)の妻(36)は言う。

 男性は昨年11月、骨のがんと言われる骨肉腫(しゅ)で左下あごを切除した。顔が大きく変形し、今も入院して抗がん剤治療を受けている。情報提供を呼びかける4月の記事は、夫を気遣う妻が本紙に手紙を出したのがきっかけだった。

 記事に対する読者の手紙を読んだ男性は、目に見えて明るくなった。「病気を受け止めたつもりでも、『なんでおれが』という怒り、もやもやがどこかにあったと思います。どこにもぶつけられなかった」

 「前向きに頑張る皆さんのお話を読んで衝撃を受けました。自分が恥ずかしくなった。いったい自分は何をしていたのだろう、と」

 再発・転移したらどうなるのか、手術で会話や食事がしづらくなり、社会復帰できるのか。不安は尽きなかった。

 足や肩の骨をあごに移植し、再建する方法もあるが、「あごの関節を取っているので、再建手術をしても、そしゃく機能を完全に取り戻すことはできない」と医師に言われていた。

 だが、数々の体験談が男性の気持ちを変えた。あごの関節を取っても、骨や筋肉を移植して顔立ちが良くなった人。発音や食事はしにくくても、身ぶり手ぶりを交えて話したり、食べ方や食事内容を工夫したりして元気に働いている人。

 「『これは今の自分でもできる』『これは3年後、5年後にはできるかもしれない』と思いながら読みました」

 中でも、がん再発のたびに手術を受け、社会復帰している人の話は大きな励みになった。

 男性は、上司にも「大丈夫。ちゃんとお前には戻る場所がある」と言われた。

 抗がん剤の副作用で、夜中に吐き気と下痢に襲われ、トイレで泣いた日もあった。吐き気は続くが、「落ち着いて対処できるようになった」と話す。

 「不安は消えませんが、皆さんのように今できることを精いっぱいやろうと思えるようになりました。道筋を照らす希望をいただき、心から感謝しています」

(2008年6月5日 読売新聞

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孫娘「16年」生きる力


結婚当初からの夫の写真を見ながら思い出を語る女性。孫娘が生まれた時は、あごにプレートを入れ、手術前とほぼ同じ顔立ちで記念撮影した

 「これから先、大変ですが、奥さまがしっかり支えてあげて下さい。上手に息抜きすることが、長続きのコツです」

 骨にできるがん、骨肉腫(しゅ)であごを切除した男性の妻からの手紙を紹介した記事に対し、埼玉県の女性(74)から、こんな手紙が寄せられた。

 女性の夫は58歳の時、下の歯茎にがんができた。下あごの中央部と舌の右半分を切った。

 舌は、おなかの筋肉で再建したが、下の歯とあごがなくなり、皮膚だけが残った。顔が上下にくしゃっとつぶれた形に変形した。

 退院する時、流動食の缶詰をもらったが、口に合わないのか受けつけない。家族の食事と同じものをミキサーにかけた。

 それでも、思うように食べられない。自分で鏡を見ながら、大きなスプーンですくい、上を向いて流し込むとうまくいった。

 食事に何時間もかかり、食べ終わると次の食事が始まる。「一食ごとに『硬い』『軟らかい』と注文がつき、疲れ切ってしまいました」と女性は振り返る。

 妻が作った食事を夫が自分でミキサーにかけることにした。慣れると、食事の時間も短くなり、妻は楽になった。ウナギやカツが好物で、ご飯、みそ汁と混ぜ、おいしそうに食べた。

 手術後、夫は発音が思うようにできず、家族は理解できても、初対面の人には聞き取れない。1年後に復職してから、取引先との話し合いで苦労した。無口な夫が何度も「死にたい」と漏らした。

 「じいちゃんいなくなったら、孫はどうなるの!」

 夫の退院の日に生まれた孫娘は、夫の生きがいだった。手術後、心配した娘夫婦が同居してくれて、孫は夫になついていた。

 考え抜いた一言だった。夫から「死にたい」という言葉は出なくなった。

 夫は70歳近くまで働き、2年前、74歳でこの世を去った。かぜをこじらせ、肺炎が原因だった。がんになった当時は「1年もたないかもしれない」と宣告されたが、16年間、再発は一度もなかった。

 「できることは自分でしてもらい、家族もかかり切りにならずに楽しみを見つけること」と女性は話す。女性はスキーが趣味で、孫たちと出かけたり、海外の山で滑ったりした。

 そして、言いたいことは何でも言い合った。「元気になれる言葉であれば、厳しいことでも心は傷つきません」。夫が亡くなった今、「娘から『けんか相手がいなくなって寂しいでしょう?』とからかわれます」とほほ笑んだ。

(2008年6月4日 読売新聞

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8度の手術後も大黒柱


「自分が積極的に外へ出て行くことで、同じ立場の人を勇気づけたい」と話す榎田さん(鹿児島県の自宅で)

 骨のがんと言われる骨肉腫(しゅ)。4月、あごの骨肉腫で左下あごを切除した兵庫県の男性(36)の妻(36)からの手紙を掲載した。男性は顔が変形し、食べるのに不自由する。珍しい病気で情報がない……。情報提供を呼びかける記事に、約60通の励ましのお便りが届いた。

 「紙面を拝見し、たまらずペンを執りました。ここまで自分の境遇に似た人に出会うとは。写真すら自分の姿に見間違うほど」

 鹿児島県霧島市の海運会社勤務、榎田剛(えのきだたけし)さん(39)は、こんな手紙を送ってくれた。紹介した男性と同じ左下あごの骨肉腫。「手術後の苦労も痛いほど読み取れました」

 鹿児島へ飛んだ記者を出迎えたのは、髪をそり上げた精悍(せいかん)な男性だった。自宅の庭で750ccのオートバイを手入れしながら、近くで遊ぶ長男正裕君(14)と長女ひかりちゃん(11)に優しいまなざしを向ける。

 「家族と会社の同僚、オートバイが支えてくれた5年間でした」と語り始めた。

 2003年春、あごの先にかすかなしびれを感じ、がんがわかった。鹿児島大病院で、左下あごを切る手術と抗がん剤治療を受けた。入院は7か月に及んだ。

 毎日帰宅できるようにとの職場の配慮で、長距離トレーラーの運転手から、港で積み荷を運ぶ車両の運転手に配置換えになった。

 翌年、上あごへの再発がわかった。上あごを削り、放射線で治療した。その後遺症で左ほおに穴が開き、胸の筋肉をほおに移植して穴をふさいだ。

 一昨年、昨年と左肺への転移が見つかり、そのたびに手術を受けた。

 受けた手術は計8回。最初の手術で顔を走る神経が切れ、顔の左半分が動かない。左耳も聞こえない。

 「食べづらい、話しづらいことが、こんなに不自由だとは」。患者にならないとわからないことがある。だから、病院でもほかの患者に積極的に話しかける。「再発しても『まだ手術で取れる』と思えるのは、仲間の話を聞いたから」

 今年3月、右目の上に影が映り、再発の可能性を指摘されたが、先月の再検査で影は消えた。「不安のピークから、安堵(あんど)の極地に舞い降りた瞬間でした」

 休日には子供の一人をオートバイの後ろに乗せ、父子二人、山に泊まりがけのキャンプに行く。「強くて、優しいお父さん。早く元気になって」とひかりちゃん。

 日々、心は揺れる。それでも、今日この1日、一家の大黒柱として家族を支える手応えはある。

(2008年6月2日 読売新聞

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